2014年2月26日水曜日


劉寒吉の『山河の賦』を読みたくて北九州市立中央図書館へ行った。
カウンターで訊ねるとすぐに探して持って来てくれたので、一時間半ほど読み耽った。面白い!

この作品は、1943年に九州文学賞受賞を受賞した劉寒吉の代表作の一つ。この本自体は、1990年に新人物往来社から出されたものだ。


幕末維新の頃、小倉藩はどうしていたのだろうか?
ふつうの歴史教科書には出てこない。北九州市立の学校でも教えていないだろう。小倉藩は譜代大名の小笠原家が領していたので当然幕府方であり、長州藩とは対立する運命。そして第二次長州戦争の小倉口の戦いでは、小倉城を自焼させて、南の田川郡香春まで撤退することになる。

家老は切腹し、誰も指揮をとるものが他にいない中、よく敗残の兵をまとめ、幕府も諸藩も見捨てた状況で、単独で小倉藩の兵を率いて長州の軍勢と戦闘を続行したのが、島村志津摩だ。
呼野付近の
金辺峠と狸山(中津道)に布陣して、長州軍と戦ったのです。農民兵等を指揮し、峠を死守して田川郡を護る。

「勝つも、負けるも、ともに同じ日本人である。このことはかなしい。しかし、われらは大義の上に立とう。大義の道を進もう。いまや、われらの故郷は焼け、われらの住むべき家はない両親も姉妹もとおく去った。われらには信ずべき同志あるのみである。わしは荒涼たる故郷の山河を想う。たのしかった山も、川も、いまは敵兵の蹂躙するところにまかせている。美しい故郷の山河は焦土と化し、われらの夢は、炎上するお城の煙とともに消えてしまった。しかし、希望を持とう。なにもかも失い尽くしたわれらは、いまこそ、小倉武士の真骨頂をあらわして、顧慮するところなく戦うことができる。われらはたたかう。われらは失った故郷の山河を奪還する。いままでの戦は小倉藩自体の力ではなかった。きょうからは、わが軍の全力をあげて必死の戦闘を展開する。……ほんとうの戦は、これからじゃ。われれは最後の一兵となるまで戦う。われらは祖先の眠る地から敵を撃退することを誓う」

泣けるじゃないですか!
島村志津摩と小倉武士を忘れてはいけないでしょう。

© Junichi Nochi(野知潤一)
 
Toggle Footer